2023年02月20日
ストラテジーブレティン 第326号
植田日銀新体制、黒田体制にはなかった二つの好条件
政府は黒田東彦日銀総裁の後任に、経済学者で元日銀審議委員の植田和男氏を起用する人事案を国会に提示した。衆参両院の同意を経て内閣が任命することになる。これまで長らく本命視され、事前の日経報道で政府からの打診が報じられた雨宮正佳副総裁は「今後の金融政策には新しい視点が必要」との考えから固辞したと伝えられている。
中庸の植田氏、黒田異次元緩和に理解
市場の関心は、植田氏が黒田氏の異次元の金融緩和を墨守するリフレ派なのか、それともそれに反対するタカ派なのかだが、植田氏はその中庸を行く人物と思われる。8年にわたる日銀政策委員としての実務経験に基づき、特定の理論で整理できるほど経済や金融の現実は単純ではなく、局面に応じて有効な理論やツールを柔軟に応用するべき、という持論を持っている。その柔軟で慎重な現実主義は、2000年(速水総裁)、2006年(福井総裁)の2回にわたって利上げに反対したこと、時間軸効果(フォワードガイダンス=緩和を長期間続けるという約束が、緩和効果を高めること)のような非伝統的政策を推進してきたこと、等から明らかである。
植田氏は日経新聞の『経済教室』で「日本における持続的な2%インフレ達成への道のりはまだ遠い」「金利引き上げを急ぐことは、経済やインフレ率にマイナスの影響を及ぼし、中長期的に十分な幅の金利引き上げを実現するという目標の実現を阻害する」としつつも、「予想を超えて長期化した異例の金融緩和枠組みは、どこかで真剣な検討が必要だろう」と述べている(2022年7月6日付)。
黒田氏が直面した二つの困難、①日本病と伝統的金融政策の無能化
黒田日銀体制は、日本経済の危機的状況の下で出発し、異次元の金融緩和、イールドカーブコントロールという、過去の常識から大きく離れた革命的政策を繰り出した。黒田総裁が就任した2013年3月は、東日本大震災や欧州債務危機の直後で、家計も企業も悲観一色であった。世界中で日本だけがデフレであり、超円高でハイテク企業がことごとく競争力を失い、6重苦が日本企業の収益力を著しく蝕み、株価も不動産価格も消費者物価も、世界の中で日本だけが下落を続けていた。これを各国エコノミストやメディアは日本病(Japanification)と呼び、FRBやECB、BOEなど先進国の中央銀行は、戦うべき最大の病、と考えていた。
また伝統的金融緩和政策は明らかに限界に達していた。金融政策は信用創造を通して総需要に影響を与えるものであるが、銀行の先に借り手はいなくなり銀行融資のコントロールというチャンネルは働かなくなっていた。また、金利はゼロに張り付いており更なる利下げの余地はなくなっていた。日本の経済と金融は、元FRB議長バーナンキ氏がリーマンショック後に量的金融緩和を導入した時以上の手詰まり状態であり、脱デフレ、経済成長軌道の復元のためにはまさに金融政策の革命的手法が必要であった。
黒田氏が直面した二つの困難、②強烈な政策批判
異次元の緩和政策は、伝統的政策に固執する日銀OB、学者、エコノミストとメディアからの総批判を浴びた。そもそも日本のデフレは大恐慌型のスパイラルではなくマイルドな「デフレ均衡」であり、少子高齢化の下では甘受するしかないものであるとの風潮が蔓延しており、デフレ脱却に対する国民的合意が形成されていなかった。それなのに安倍政権はまだ白川総裁時代の2013年3月に、日銀にデフレ脱却の圧力をかけて「政府と日銀の政策協定(アコード)」を締結させたが、その強引な手法に対する反発が経済論壇に修復不能の溝を作ってしまった。安倍政権批判に凝り固まった左翼メディアは、アベノミクスの中核である黒田日銀の革命的金融政策を、半ばイデオロギー的に批判し続けた。
この強烈な日銀政策批判は、アベノミクスは失敗し日本病脱却は果たせないとするものであるから、予定調和的に人々の後ろ向きな経済行動を促進することでアニマルスピリットを圧殺し、自己実現的に政策の効果を奪った。それは2度にわたって実施された消費税増税とともに、経済パフォーマンスを悪化させ、2%インフレターゲットの実現を阻み続けたのである。かつて量的金融緩和を推進したECBのドラギ総裁はドイツのマイナス金利批判に対して「代替策のない全否定は受け入れられない」と述べたがそれは日本国内の日銀批判にこそ当てはまる。
植田氏が享受する二つの好条件、①劇的に改善した経済と市場
翻って植田氏が新総裁に選任されるとして、新体制には黒田体制とは真逆の2つの好条件がある。第一は経済と市場の劇的改善である。日経平均株価は1万円強から3万円弱まで上昇し株式時価総額は、300兆円から700兆円へと増加した。為替相場(ドル円レート)は80円から130円以上までの円安となり、デフレ基調からインフレ基調へと、物価趨勢が変わった。2000年から2012年頃まで6300万人前後で停滞していた就業者数は6700万人と400万人増加した。2000年から2012年まで40兆円台で推移していた法人企業の経常利益は2021年度に87兆円へと倍増した。また税収は2度にわたる消費税増税と景気の拡大による所得税の増加が寄与し2022年度(予算)は65兆円と、10年前比5割増となった。そして海外要因が主因とは言え、物価上昇率は1月の東京区部で前年比4.4%、食料・エネルギーを除くコアで1.7%とほぼ目標に到達する状況になっている。政労使一体となった賃上げ機運も高まっており、念願の2%目標が実現できそうな環境が整ってきた。日銀批判派は完全に無視するが、異次元金融緩和の成果は甚大で、植田氏はそれを引き継ぐのである。
植田氏が享受する二つの好条件、②両サイドからの厚い信任
新体制が期待できる第二の条件は、日銀に対する外野からのブーイングがなくなると思われることである。政策的に中庸であり、虚心坦懐に政策を遂行するとの期待はハト派からも従来の日銀政策批判急先方であったタカ派からも表明されている。米国のイエレン氏、バーナンキ氏を始め今や世界の金融司令塔は官僚や政治家ではなく学者やエコノミストなど最高の知性の持ち主、というものがグローバルスタンダードになりつつあり、国際派で海外首脳との対話が可能な植田氏は適任との声が満ち溢れている。黒田日銀が苦汁を飲んだ市場との対話はよりスムーズになるのではないか。
黒田体制の下での金融政策実行部隊を指揮した内田真一氏と、日本人として初めてBIS銀行監督委員会事務局長を務め、その金融知見に対して世界的な尊敬を集めている元金融庁長官氷見野良三氏が副総裁としてわきを固める布陣は見事である。
こうした環境下で、日銀の政策変更は進展していくものと思われる。