2021年08月20日
ストラテジーブレティン 第285号
「安いニッポン」が日本復活の起動力
「安いニッポン」が共通認識に、これを議論の出発点にしよう
ここ一年、「安いニッポン」という現状認識が、経済議論の出発点として共有されるようになった。異常に安くなった日本の物価の現実を丹念に調べ上げた日経新聞企業報道部の中藤玲さんの貢献が大きい。またダイヤモンドでは竹田孝洋編集委員が中心となり、より広範な価格の実態調査を実施している。21世紀に入って日本の賃金はほとんど上昇しなかった。その結果、平均賃金の水準では、G7でイタリアと最下位を争い、2015年には韓国に抜かれ、差が開く一方だ。またビックマック価格は最高のスイスの約半分、韓国・ブラジルよりも安くなっている。中国など世界的に需要増により、ズワイガニの国際価格はこの10年で2.5倍に高騰し、日本人の口には入りにくくなったと報じられる。ダイヤモンド社は物価・賃金のみならず、株価、不動産価格がバーゲン状態となり、外資に買い漁られている実態を報告している。
この「安いニッポン」は日本にとって朗報である。国際的価格競争力が各国経済の肝であるが、「安いニッポン」が国際競争力を高め日本経済の好循環を引き起こすと考えられるからである。
「安いニッポン」をどのようにして是正するのか、①円高誘導か、②賃金引上げか
しかし「安いニッポン」は日本衰弱の証拠であり、これは困ったことだ、「安いニッポン」を是正しなければ、という反応が高まっている。それは一見自然なことのように思われる。
どうすれば「安いニッポン」を是正できるのか。二つの方法が考えられる。その第一は円安是正である。物価下落相応の円高になれば、日本の失われた国際購買力は復元できる。円高になれば価格が高騰したズワイガニを、再び日本人が口にできる、という議論は多くのエコノミストに共有されている。第二の「安いニッポン」の是正は強制的な賃金の引き上げである。政府の成長戦略会議メンバーであるデービッド・アトキンソン氏は最低賃金の引き上げにより、安価な労働力に依存した中小企業の経営モデルの転換を促す必要があると訴えている。
しかし、この二つの「安いニッポン」是正策は、経済合理性を欠き有効ではないだろう。日本のデフレ・賃金下落は著しい円高で競争力を失った日本企業が、賃金引き下げを余儀なくされたことから始まっている。さらに円高になれば、企業は競争力維持のために一段と賃金を引下げざるを得ない。または海外への工場移転を進めざるを得ない。まさに円高デフレの蟻地獄である。
また日本の賃金を強制的に引き上げよ、という政策はそれだけでは実現可能とは思われない。低賃金は日本企業の価格競争力の低下に起因しているのであるから、そこで賃上げを迫れば企業収益が悪化し、企業の賃金負担能力は一段と低下する。
「安いニッポン」はいいこと、ここから日本復活の好循環が始まる
「安いニッポン」はいいこと、変える必要はない、ここから好循環が始まる、と考えるべきではないか。なぜなら「高いニッポン」が悪循環の出発点だったからである。この「高いニッポン」が円高でさらに高くなり、日本の価格競争力は劇的に低下した。日本凋落の根本原因は明確に、価格競争力の低下であり、「高いニッポン」と円高がそれを引き起こしたのである。
世界一「高いニッポン」が凋落の起点であった
1990年代前半、日本は世界一の高物価国であった。ホテル料金から何から何まで世界で一番高かった。皇居の地価と米国カリフォルニア州の地価がほぼ同じであった。株価も高かった。1990年世界時価総額トップ10の銀行は9位までが日本の大手都市銀行で占められていた。筆者は1995年「異常な日本の物価高、内外価格差の拡大」の分析を国会において参考人として証言し、国内の高コスト構造と円高が原因であると説明した。そこからの坂道を転がり落ちるような物価・資産価格の下落が起き、同時に日本経済の急激な衰弱が始まった。
しかし今、物価・賃金安に加えての円安で、日本企業の価格競争力は過去30年間で初めて上向いている。「安いニッポン」は日本企業の低コストを意味するので、今後日本企業の収益の向上が期待できるだろう。海外生産している企業にとっては海外法人利益の円換算額の増価という形で現れる。企業の支払い能力の向上と技術労働者の需給ひっ迫から賃金上昇に結び付くだろう。国際競争力向上はグローバル製造業と、数年後に急拡大が予想される観光関連国内産業で顕在化すると考えられる。このように「安いニッポン」は日本経済復活の起動力になると考えられる。日本の失われた国際購買力の回復(ズワイガニを再び日本人が口にできること)は、企業の国際競争力回復があって初めて実現できる。今大切なことは円安を進めるために、超金融緩和をできる限り持続させることである。
何故観光業が重要か
コロナ禍が無かったら今何が起きていただろうか。オリンピックを契機として日本に4000万人の観光客が殺到し、一人当たり20万円の支出とすると8兆円の新規外需が日本の国内産業に落ちていたはずである。日本の安価・高品質の観光資源・サービスが世界の中産階級に提供され、需要は急増しただろう。世界どこを旅しても日本ほど安く安全美味しいところはない。日本の内需が外国人によって満たされるという10年前には考えられなかった、うれしい転倒が起こっている。これはポスト・コロナにおいて、顕著なトレンドになっていくであろう。「安いニッポン」は輸出産業は言うまでもなく国内産業においても、価格競争力上昇、需要増加となって日本経済復活の好循環を惹き起こす可能性が高い、と考えるべきではないか。
コスパが特に良い日本の観光業、バラッサ・サムエルソン仮説が効く
「安いニッポン」はことに、日本の内需産業、サービス価格で顕著であり、外国人から見た日本観光のコストパフォーマンスは非常に高いとみられる。
なぜ日本の国内価格が外国人から見て、魅力的なのか、それは国際経済理論上の有力な論理、バラッサ・サムエルソン仮説で解釈が可能である。バラッサ・サムエルソン仮説は、世界の賃金は一物一価であり、労働生産性が同一の二か国の労働賃金は同一になるという原則から出発する。但し、それは相互に国際市場で競争をしている貿易財(主に製造業)に対してのみあてはまることである。それでは国際市場で競争をしていないサービス業など各国の内需産業の賃金はどう決まるのかと言うと、その国の貿易財産業で形成された国内賃金相場にサヤ寄せされて決まる。つまり貿易財産業においてA国の生産性がB国の2倍であれば、A国の貿易財産業賃金は、B国の貿易財産業の2倍になる。その結果A国のサービス産業の賃金もB国のサービス産業賃金の2倍になる、と言うことが起きる。A国、B国のサービス産業賃金は生産性に関係なく決まるということである。概してサービス産業、例えば床屋さんの生産性は、先進国でも新興国でもあまり違いがない。しかし先進国の床屋さんの賃金は新興国の10倍にも相当する、ということが起きる。つまり生産性あたりの賃金価格差が、サービス産業において特に大きく開いているのである。
しかしここで国際交流が活発になり、サービス産業にも外国人の顧客がつくようになれば、事情は変わってくる。B国の割安なサービス産業(生産性があまり変わらないのに価格が半分)に海外需要が殺到することになる。日本の観光関連の価格が国際比較で大いに割安化していることは、中藤さんの著書から明らかなので、日本の観光需要が大きく増加する、と期待される。「安いニッポン」は、観光という国内産業に現れた外需によって、大きく是正されていくと、見られるのである。
このように「安いニッポン」は製造業以上に、内需産業での物価アップサイド圧力を強めることになる。観光業の隆盛が日本のデフレ脱却の牽引力になると考えられる。